当山で執り行う護摩祈祷は、2種類に分けている。
私が一人で時間をかけてご祈祷をする護摩祈祷と、ご祈祷を申し込まれた参列の方を目の前にしての護摩祈祷である。
2つを分けて行うのは、
一つは1時間から1時間半をかけてじっくりと祈願成就をそのお悩みに応じた内容で執り行いたいからである。
また、後者は、20〜30分ほどで、炎のそばでお手を合わせていただけるようにしており、炎そのものを肌で感じていただきたいと思うものである。
更には、護摩修行として一緒に簡単な経文や真言を唱え、炎を目の前にし祈るのも強力な真言と炎による浄化となる。
正式参拝のご祈祷に追加オプションように、お申し込みされることが多く、その分ご利益も早く体感していただけるものと、皆様からのお声を聞く中で感じるものである。
護摩祈祷をする意義として、師匠から大日経の経典の講義をしていただいているときにご教授賜った内容を少しご紹介する。
その経典や注釈書には、
サトリに至るために、精神的な向上の修行の進み度合いによって、修行の仕方が違うことが書かれている。あくまで密教修行者としてのバイブルに書かれている者ではあるが、出家もしていなく、修行したことのない人でも、修行法を学ぶ事は良い事である。
上中下の三段階に分けられ、
a.よく進んでいる者、
b.進めている者
c.なかなか進んでいない者
に分ける。
それぞれの修行方法については、
a.は、観念での修行
b.は、真言念誦の修行
c.は、護摩による修行
である。
aについて
観念での修行とは心にイメージすることでサトリに至るということで、つまり心の中がそれだけ高次元の精神性が高く、仏とリンクしやすい波動を持つ者は、観念だけで到達できる。常より憶念し、観念をしっかり持つべきである、とする。
bについて
真言の念誦とは、真言のもつパワー、つまり音の響きにより、周波数、波動を整えることである。真言のことを明呪という。無明(煩悩、マイナス観念)にたいして、明るく(プラス観念に)なるための呪文である。
それを繰り返し唱えることによって、音の響きによって祓うのである。
cについて
護摩とは、炎によって天の神々にお供えを届けるという火祭りが期限となるが、密教の場合は火そのものが火天という神で、大日如来などの本尊の救済の光であると考える。つまり炎そのものがご神体なのである。生命エネルギーとの解釈もある。
その火を体に浴びながら、真言を唱え、心身を清めてゆくことが護摩の修行である。
観念と真言の音の響きに炎の力を加えたものである。
一心不乱に燃え盛る炎、御神体として眩い光を放つ炎に向かい真言を唱えるため、妄念や妄想などが吹き飛び、無我夢中という言葉の通り無我の境地へと自然と入る。本当の自分、本来仏である自分へと入る。熱い、眩しい、激しい等など、炎の特性を頭で考えるのではなく、感性で感じ、身体で感じるのである。
古来から火というものは不浄を祓うとされてきた神聖な霊体である。その火に向かうことで、本来備わる心の中の光、身体的パワーが顕現する。だからこそ祓いとしての力が強く、心と体の浄化となり、悪縁が浄化されたり、自分の本来の気持ちに立ち返ることなど、様々なご利益を実感する方が多い。
特に私が常より思うことは、護摩の祓い清める力が強いので、だからこそ炎のそばで本人が祈願をしてほしい。言葉で表現できないことを心と体で感じられるからである。
サトリとは仏陀となる悟りを開くことではあるが、限定的な意味ではなく、本来の自分に立ち返る、本来備わる仏に気付く、心の安定した自分となる、等々、表現は多岐にわたる。
体や気持ちが軽くなったり、涙を流したり、表情が明るくなったりと、人相そのものが変わる方も多く、それが浄化のご利益を頂いたお印であり、心の平安や、厄除け、問題解決、開運の第一歩となるのである。
加えて、
上述では修行の進み具合によって上中下の三段階を分ける説明があるが、下だから悪いと言うことではない事は注記しておく。あくまで密教修行者として、ということである。
しかし、出家していない、修行したことのない人でも、イメージや、音の響き、炎の力強さを兼ね揃えた護摩祈祷はとても有意義である。
また当山では、太鼓を叩きながらの祈祷のため、元気が出るご祈祷である。